2010年11月25日
暮らしの中のアート デザイン/gysDESIGN
デザインとユーザビリティを共存させるアート
gysDESIGN/岡島英樹さん、伊澤佳奈美さん
ーデザイナーのおふたりはアートと深いかかわりがあると思いますが。
(岡)デザインとアートとはまったく違うものです。
(伊)私はもともとどちらかといえば、アートの方にいた人でデザインをやっていなかったんです。油絵や彫刻や日本画など、いわゆるファインアートですね。デザイン勉強し始めたのは仕事を始めてから。デザインが何たるかを最初は知らなかった。
(岡)これは本当です。3年やってきた彼女のデザインを見てまったくの素人だと思ましたから。アートは感覚の問題だから正解はまったくないんです。でもデザインには正解というか、セオリーがありますね。
(伊)デザインの場合は結果が欲しいですね。アートにはそれがない。デザインは相手がいて効果が求められます。
そこがデザインとアートの大きな違いだと思います。どちらかというとアートは作った人が発信するという感じがありますね。表現する人が大事。
(岡)デザインは買う相手が大事です。商業デザインは特にね。
gysDESIGN/岡島英樹さん、伊澤佳奈美さん
ーデザイナーのおふたりはアートと深いかかわりがあると思いますが。
(岡)デザインとアートとはまったく違うものです。
(伊)私はもともとどちらかといえば、アートの方にいた人でデザインをやっていなかったんです。油絵や彫刻や日本画など、いわゆるファインアートですね。デザイン勉強し始めたのは仕事を始めてから。デザインが何たるかを最初は知らなかった。
(岡)これは本当です。3年やってきた彼女のデザインを見てまったくの素人だと思ましたから。アートは感覚の問題だから正解はまったくないんです。でもデザインには正解というか、セオリーがありますね。
(伊)デザインの場合は結果が欲しいですね。アートにはそれがない。デザインは相手がいて効果が求められます。
そこがデザインとアートの大きな違いだと思います。どちらかというとアートは作った人が発信するという感じがありますね。表現する人が大事。
(岡)デザインは買う相手が大事です。商業デザインは特にね。
ーそうすると自分がやりたいものと相手が希望するものと違うことも出てきますね。
(岡)もちろんあります。それに沿わせていくことが上手な人がデザイナーです。ただ、それを聞き入ってしまうのはよくないことで、こちらがやりたいことや思っていることを上手に出して、その方向へディレクションする力のある人がクリエイターであり、真のデザイナーといえると思います。ご用聞きはデザイナーではなく、それはオペレーター。だから学遊社のメンバーはやっぱりデザイナー、クリエイター、プロデューサーになってほしいと思っています。そしてもうひとつ、デザインには答えがあって人を感動させるのには限界がある。驚きもなければ、奥ゆかしさもアートと比べると限界があります。でもアートには底知れぬ力がある。伊澤にはそのアーティストの部分があります。そしてもっと言えるのは、僕たちはデザイナーですが、今のデザイナーと名乗っている人はほぼオペレーターだということ。そこが絵を実際に描いていた人と描いていない人との違いかな。描いていた人は絵の空間やモノのチカラが分かりますが、今の若いコたちは初めからモニターの中で仕事をする。だからチカラの差が出てきますよね。そういうのはたぶん、暮らしの中にも出てくると思います。
(伊)その人自体がデザインみたいなことを岡島はよくいいますね。選ぶ服や住んでいる部屋や選ぶ小物など、すべてがデザインに関わってくると。
(岡)セルフプロデュースです。それは本当に直結するもので、暮らしの中にある僕というもののアートというか、「あの人ポルシェ乗っている」というようなキャラクター作り。僕はジリ貧のときでも雨漏りするポルシェに乗っていた。それは僕のカラーがポルシェだったから乗っていたわけで、それはプライドであり、ライフスタイルのアートといえる部分なのかもしれません。そんなことの繰り返しではないかなと。そういうことでいえば、自分の奥さんもアートかもしれないし、子どもや母、近所の人も友だちもそうなのかもしれません。アートがもしその人の選択肢として好き嫌いの趣味のもので、相手から何も言われるものではないとしたら、大きくいって人生そのものですね。
(伊)アートやデザインは形のないものだから、説明しにくいですよね。
(岡)ライフスタイルや趣味も全部一緒です。今回の暮らしの中のアートというは、自分のこだわりの追求というのかな。たとえば会社にシャガールの絵がありますが、あなたは本当にシャガールが好きですかと聞かれたらわからない。じつを言うと僕は美術館が嫌いです。なぜかといえば美術館へ行くと必ずうんちくをいうオヤジがいるから(笑)。あなた本当にわかっているの?という人を見つけるのがイヤなんです。アートに理屈なんてないはず。ピカソなんて見る人によっては子供の落書きのほうがうまいと思うかもしれません。「このラインは」とか、「このデッサンで」などよくピカソの説明を聞きますが、「偶然じゃない?」なんて思うこともありますね(笑)。
(伊)セザンヌの場合でも構図の細かい設定についての図解や説明書きを見ますけど、「そこまで思ってないでしょ」と思うことはありますね。
(岡)たぶん理屈とアートが重なる部分も歴史の中ではあると思います。たとえば葛飾北斎や安藤広重など、江戸時代の文化に西洋の遠近法が出てきますが、あれはどこかから学んだものであり、その観点からいえばアートというよりはデザイン寄りのものだと思います。遠いものが小さく見えて、近いものは大きく見えるという方法論だから。そのように理屈が出てくるというのは、同じアートでもデザインではないかと。その点、遠近も狂っていて前から顔が見えて横顔が見えるピカソの絵は、理屈を超えてしまっているからアートなんですね。固定概念を外す。デザインも取っ掛かりは、そこから入らなくてはいけないと思います。答えが出ているものではなく、答えがないものから答えを見つけていく。そうやって概念がないアートから入り、最後はお客を呼ぶというセオリーに落とし込むからデザインだと思うし、gysのメンバーにはそうなってほしいと思います。
考えてみるとつい最近話題になった「食べるラー油」もアートと呼べるかもいれない。だってラー油なんてだれも食べようとは思わない。あれを商品化した人や食卓に持って行かせた人はアーティストだと思います。
(伊)デザインやアートを追求しすぎると使いにくかったり、暮らしにくかったりという弊害が出そうな気もします。要はカタチだけのアートを追求するということ。たとえば、たくさん色を使えばアートだろうといって使ったら、何だか分からなくなってしまったとか、カタチが変わっていればいいだろうと、とても変わった椅子を作ったら座りにくかったなど。アート性を求めるために見栄えだけを追求していくと違うものになってしまうのかなと思います。
(岡)それははじめに言っていた自己満足の世界というアートの概念とは外れていないよね。ただ暮らしの中のアートは、自己満足だけではいけないアートの集まりなのかもしれないということ。使って良しというところも考えなくてはね。使いやすくかつデザインに優れたもの、それは意外に普通のものなのかもしれません。座りやすいものは尖っていないし、柔らかいものも尖っていない。それがデザインにこだわって剣山みたいな椅子だったらお尻は血だらけ…(笑)。それはアートでも暮らしの中のアートとはいえません。僕たちの仕事であるデザインに置き換えてみると、見やすさや読みやすさだったりを追求していくこと。どうしたら相手に受け入れてもらえるか、どうしたらアート性を高められるか。そのギリギリラインをせめぎ合うことが、暮らしの中のアートにつながるではないでしょうか。
gysDESIGN(学遊社)
浜松市中区鴨江4-2-15 gysbuilding
053-455-4444
>>>www.gysdesign.jp
(岡)もちろんあります。それに沿わせていくことが上手な人がデザイナーです。ただ、それを聞き入ってしまうのはよくないことで、こちらがやりたいことや思っていることを上手に出して、その方向へディレクションする力のある人がクリエイターであり、真のデザイナーといえると思います。ご用聞きはデザイナーではなく、それはオペレーター。だから学遊社のメンバーはやっぱりデザイナー、クリエイター、プロデューサーになってほしいと思っています。そしてもうひとつ、デザインには答えがあって人を感動させるのには限界がある。驚きもなければ、奥ゆかしさもアートと比べると限界があります。でもアートには底知れぬ力がある。伊澤にはそのアーティストの部分があります。そしてもっと言えるのは、僕たちはデザイナーですが、今のデザイナーと名乗っている人はほぼオペレーターだということ。そこが絵を実際に描いていた人と描いていない人との違いかな。描いていた人は絵の空間やモノのチカラが分かりますが、今の若いコたちは初めからモニターの中で仕事をする。だからチカラの差が出てきますよね。そういうのはたぶん、暮らしの中にも出てくると思います。
(伊)その人自体がデザインみたいなことを岡島はよくいいますね。選ぶ服や住んでいる部屋や選ぶ小物など、すべてがデザインに関わってくると。
(岡)セルフプロデュースです。それは本当に直結するもので、暮らしの中にある僕というもののアートというか、「あの人ポルシェ乗っている」というようなキャラクター作り。僕はジリ貧のときでも雨漏りするポルシェに乗っていた。それは僕のカラーがポルシェだったから乗っていたわけで、それはプライドであり、ライフスタイルのアートといえる部分なのかもしれません。そんなことの繰り返しではないかなと。そういうことでいえば、自分の奥さんもアートかもしれないし、子どもや母、近所の人も友だちもそうなのかもしれません。アートがもしその人の選択肢として好き嫌いの趣味のもので、相手から何も言われるものではないとしたら、大きくいって人生そのものですね。
(伊)アートやデザインは形のないものだから、説明しにくいですよね。
(岡)ライフスタイルや趣味も全部一緒です。今回の暮らしの中のアートというは、自分のこだわりの追求というのかな。たとえば会社にシャガールの絵がありますが、あなたは本当にシャガールが好きですかと聞かれたらわからない。じつを言うと僕は美術館が嫌いです。なぜかといえば美術館へ行くと必ずうんちくをいうオヤジがいるから(笑)。あなた本当にわかっているの?という人を見つけるのがイヤなんです。アートに理屈なんてないはず。ピカソなんて見る人によっては子供の落書きのほうがうまいと思うかもしれません。「このラインは」とか、「このデッサンで」などよくピカソの説明を聞きますが、「偶然じゃない?」なんて思うこともありますね(笑)。
(伊)セザンヌの場合でも構図の細かい設定についての図解や説明書きを見ますけど、「そこまで思ってないでしょ」と思うことはありますね。
(岡)たぶん理屈とアートが重なる部分も歴史の中ではあると思います。たとえば葛飾北斎や安藤広重など、江戸時代の文化に西洋の遠近法が出てきますが、あれはどこかから学んだものであり、その観点からいえばアートというよりはデザイン寄りのものだと思います。遠いものが小さく見えて、近いものは大きく見えるという方法論だから。そのように理屈が出てくるというのは、同じアートでもデザインではないかと。その点、遠近も狂っていて前から顔が見えて横顔が見えるピカソの絵は、理屈を超えてしまっているからアートなんですね。固定概念を外す。デザインも取っ掛かりは、そこから入らなくてはいけないと思います。答えが出ているものではなく、答えがないものから答えを見つけていく。そうやって概念がないアートから入り、最後はお客を呼ぶというセオリーに落とし込むからデザインだと思うし、gysのメンバーにはそうなってほしいと思います。
考えてみるとつい最近話題になった「食べるラー油」もアートと呼べるかもいれない。だってラー油なんてだれも食べようとは思わない。あれを商品化した人や食卓に持って行かせた人はアーティストだと思います。
(伊)デザインやアートを追求しすぎると使いにくかったり、暮らしにくかったりという弊害が出そうな気もします。要はカタチだけのアートを追求するということ。たとえば、たくさん色を使えばアートだろうといって使ったら、何だか分からなくなってしまったとか、カタチが変わっていればいいだろうと、とても変わった椅子を作ったら座りにくかったなど。アート性を求めるために見栄えだけを追求していくと違うものになってしまうのかなと思います。
(岡)それははじめに言っていた自己満足の世界というアートの概念とは外れていないよね。ただ暮らしの中のアートは、自己満足だけではいけないアートの集まりなのかもしれないということ。使って良しというところも考えなくてはね。使いやすくかつデザインに優れたもの、それは意外に普通のものなのかもしれません。座りやすいものは尖っていないし、柔らかいものも尖っていない。それがデザインにこだわって剣山みたいな椅子だったらお尻は血だらけ…(笑)。それはアートでも暮らしの中のアートとはいえません。僕たちの仕事であるデザインに置き換えてみると、見やすさや読みやすさだったりを追求していくこと。どうしたら相手に受け入れてもらえるか、どうしたらアート性を高められるか。そのギリギリラインをせめぎ合うことが、暮らしの中のアートにつながるではないでしょうか。
gysDESIGN(学遊社)
浜松市中区鴨江4-2-15 gysbuilding
053-455-4444
>>>www.gysdesign.jp
Posted by gysDESIGN スタッフ at 12:00│Comments(1)
│vol.21 暮らしの中のアート
この記事へのコメント
お元気よう。
あいかわらずカッコイイですね。岡島社長。
久しぶりに社長の格言みたいなのをきけて満足です。
そして、尊敬です。
ボクもいつかそんなかっこいいことを言えるようになりたいです。
あいかわらずカッコイイですね。岡島社長。
久しぶりに社長の格言みたいなのをきけて満足です。
そして、尊敬です。
ボクもいつかそんなかっこいいことを言えるようになりたいです。
Posted by 晴れの国からブンショワイ at 2010年12月06日 21:08